「年をとったら人にはふたつの手がある。ひとつは自分を助ける手。もうひとつは他人を助ける手」
というイギリス人女優のオードリー・ヘプバーンの言葉があります。彼女は晩年まで、この言葉を実践しようとした、心優しき人だったそうです。
「年をとったら」というのは「経験を重ねたら」「大人になったら」と解釈することが出来そうですね。情けは人の為ならずと言われるように、他人に親切するままが自分に返ってくる。以前も述べましたが、常に利他の精神で人に接していきたいですね。
皆さんは、どう感じましたか??
こんばんは。マネージャー3回生の吉本です。学連帰りの阪急電車の中からお送りします。先ずは、学連お疲れ様でした。以前に車窓からの景色を見ながら内的旅行をしていたところ、日々生きていて当たり前だと感じていることは、実は当たり前ではないとふと感じました。常に感謝の気持ちをもって生活していきたいですね。では本題へ。
先ずは、当ブログを読む時間を作ってくださり本当にありがとうございます。何か一つでも感じていただけると幸いです。
今回は、とある勉強会で学んだ言葉が印象に残り、私たちの人生においても重要になってくると感じたため、危機〜真の自由とは〜についてブログを書きます。
また、とある友達が、村上春樹の『海辺のカフカ』の一部を紹介してくれ、私たちの人生とも関わりが頗るあると感じたため、村上春樹『海辺のカフカ』での洞察について書きます。
皆さんは、危機〜真の自由とは〜と聞いて、どのようなイメージが湧きますでしょうか?
矛盾しているのではと思われる方もいらっしゃれば、繋がっていると思われる方もいらっしゃるのではないでしょうか。
偶然、フレデリックウィルコックスという方とアメリカ第35代大統領のジョン・F・ケネディの言葉を知る機会があったため、その言葉を紹介します。
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笑えば愚か者と思われるかもしれない。
泣けば女々しいやつだと思われるかもしれない。
他人に手をさしのべれば、やっかいごとにまきこまれるかもしれない。
喜怒哀楽をあらわせば、自分の本性までさらしかねない。
夢を語れば、他人にもみくちゃにされてはかなく消えかねない。
愛することには、失恋の危険がつきまとう。
生きることには死の危険が、
求めることには失望の危険が、
挑戦することには失敗の危険がつきまとう。
しかし危険は冒さなければならない。
人生最大の悲惨は、なにひとつとして危険を冒さないことにある。
危険を冒さぬ人は、なにも成し得ず、なにも手に入れられず 何もない人生を送る。
危険に身をさらさなければ、苦しみや、憂いは避け得ても 、学び、変革し、成長し、愛し、生きていくことができない。
危険に対して及び腰でいる人は、自由を剥奪された奴隷のようなものだ。
危険を冒すものだけが、自由に人生を生きられる。
(フレデリック・ウイルコックス)
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危機という漢字は、「危」(危ない)と「機」(機会:チャンス)で出来ている。
(ジョン・F・ケネディ)
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皆さんは、どう感じましたか??
リスクを冒さなければリターンは得られない様に、そして行動を起こさなければ何も起きない様に先ずは動くことが重要ですね。
危機の先に自由がある。個人的には、危険に対して及び腰でいる人は、自由を剥奪された奴隷のようなものという一文が印象に残ります。いや〜奥が深い。それにしても、上記の様な言葉を残せることは凄いですね。
次に、村上春樹『海辺のカフカ』での洞察について記していきます。
皆さんは、『海辺のカフカ』を読んだことがありますでしょうか。村上春樹の作品は、『ノルウェイの森』『騎士団長殺し』『風の歌を聴け』等がありますね。私は、『風の歌を聴け』しか読んだことがないため、他も読んでみたいです。
そして、とある友達から『海辺のカフカ』の一部を紹介され、私たちにも深い関係があると感じたため紹介します。
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「駅の構内をとてもたくさんの人々が行き来している。
みんな思い思いの服を着て、荷物を抱え、せわしなく歩き回り
おそらくはそれぞれの目的を持って、どこかに向かっている。
僕はそんな人々の姿をじっと見ている。
そして今から百年後のことをふと考える。
今から百年後には、ここにいる人々はおそらくみんな(僕もふくめて)地上から消えて、塵か灰になってしまっているはずだ。
そう考えると不思議な気持ちになる。
そこにあるすべてのものごとがはかない幻みたいに見えてくる。
風に吹かれて今にも飛び散ってしまいそうに見える。
僕は自分の両手を広げてじっと見つめる。
僕はいったいなんのためにあくせくこんなことをしているのだろう?
どうしてこんなに必死に生きていかなくてはならないんだろ?」
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皆さんはどう感じましたでしょうか?
私たちが今から百年後に生きている確率は低いですよね。儚いという漢字は、「人」が「夢」を見ると書く様に、如何に人生は儚いか。
大阪城や聚楽第を築き、栄耀栄華を極め、彼ほど成功した人はいないと言われている豊臣秀吉は、「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢の又夢」という辞世の句を残してこの世を去っています。また、徳川家康は、「人の一生は重荷を背負うて遠き道を行くが如し」と遺して世を去っています。
この世で、どれだけのことを成し遂げようが、夢の又夢と消えていくのが実態なのかと思うと余りに虚しいですよね。
村上春樹の洞察からも上記の様な苦悩が見てとれます。皆さんの中にも、村上春樹の様な疑問を持ったことがある方もいらっしゃるのではないでしょうか。これ以上書くと頗る長くなりそうな感じがするため、今回は問題提起のみで終わります。
最後まで読んでいただきありがとうございました。今回のブログはいかがでしたでしょうか、何か一つでも感じて頂けると幸いです。今度ともよろしくお願いいたします。ありがとうございました。失礼いたします。
次のブログは、誰か書きたい方よろしくお願いいたします。
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